母島部活堂とは?

 

母島部活堂は2020年に東京宝島事業の後援を受けて誕生しました。

 島民一人一人が幸せに暮らせる島づくりをするために、

「みんなが島の未来に向けて、自由に話せる場を作りたい」

そしてその内容を島内外に発信して、母島ファン(島民を含む)を増やしたい!

この目標に向けての活動を「母島部活堂」と名付け活動をはじめました。

 

 

そんな母島部活堂についてお話しします(*^_^*)

 

 

 

 

目次

①はじまりは「またかよ」「もういいよ」

②作られたゴールをはねのけて、自分たちでゴールを作り出す

③母島の課題

④母島アクションプラン

⑤「場活堂」との出逢い

⑥名前の意味

⑦どこに向かっているのか?

⑧新型コロナという転換期

⑨動き出した「母島部活堂」というカヌー

 

①はじまりは「またかよ」「もういいよ」

「東京宝島事業?」「えっ?島のブランド化?」

「またか」

「もういいよ、そんなの」

様々な思い付きの様な単発の地域おこしの様な事業が舞い込んでくる小笠原。

過去に色々議論しても、それだけで終わってしまって、

ただかき回されるだけに飽き飽きしている現状でした。

 

それは過去の、単発の事業が島に遺した、負の印象です。

結局はその事業者の少しやった感だけで終わり、

かき回された地域には何も有意義なものはあまり残っていない。

 

 

そんな懐疑的なの中から始まった「東京宝島事業」。

それは伊豆諸島・小笠原諸島の合計11島の島々がそれぞれ自分の島の魅力を再認識し、発信し、明るい島の未来を築こうというプロジェクト。 それは各島が自分の島のアクションプランを考えることでした。

  

東京宝島事業は単年の事業ではないらしい。

観光向けだけのブランド作りの事業なら私達は受けない。

地域の為の活動ができる事業であれば考える。

そんなスタンスで始まりました。

 

 なかなかレアな始まりだったのかも知れません。

 

 

 

②作られたゴールをはねのけて、

   自分たちでゴールを作り出す

当初の会議は父島と母島をTV会議で繋ぎ、

アクションプランを練り上げるワークショップ形式でした。

 

が、事務局が推し進めてきたプランが母島の現状とかけ離れていて、事務局が求めるようなゴールありきのいつもの会議だったのです。

求める顧客が[文化的富裕層]。

まずこれからして??でした。

 

【母島の農産物】

【旧ヘリの星空】

【小富士からの景色】

この3つが母島のブランドとして抽出されられたとき、

確かに素晴らしく、誇れるものだけれど、

そうじゃない。なんでこうなる?と、

参加メンバーは全員ボイコット寸前に陥りました。

 

その方向性のままなら、

母島はこの事業に不参加とする意見書を事務局に提出しました。

島の為でなく、

事業者の為のプランならば、いらない。

母島のプランをまたゼロから再構築することになりました。

 

そして、求める顧客が

[本当の人間らしさを求めている人たち](島民を含む)

という、もっと根源的なものになりました。

 

会議を進めていくうちに見えてきたものがありました。

この事業の根底は、

東京都が東京の島の未来に持つ、危機感からの事業だったことが判明しました。

 

人口約450人の母島。

 

同じ小笠原でも、

観光がメインの華やかな父島とは違い、

漁業や農業が中心の素朴な母島です。

 

人と人がすれ違いに挨拶を交わし、

丁寧な人の暮らしが残る小さな母島、

 

そこで考える未来の母島への意義のあるアクションプランとは…?

 

 

③母島の課題

今、母島が抱えている課題は解決したい事は何だろう?という話になり、

あらゆる分野で次世代の人材が不足している、

青年会などの地域行事を支える島のメンバーが減っている、

など地域力の低下が心配されていました。

 

地域として今は子どもも多いけど、

確実に高齢化や過疎化の気配がチラチラと見え始めているのを感じていました。

 

その為には、島民が島の未来の事を考えて、話す場が必要という事に辿り着きました。

ほんの10年前まであった、当たり前の島の主要メンバーが集い、

 

島の方向性を決めて行く話す場が失われてきていたのに気付いたのです。

 

 

④母島のアクションプラン

そんな宝島の会議に集った母島のメンバーが考えたアクションプランは

【みんなが母島の魅力を再認識し、共有し、過去、現在を見つめて、未来に向けて 

 しがらみを越えて、自由に話し合える場を作ろう】

ということになりました。 

 

お酒の席で語り合って終わってしまっている、

母島の沢山の課題や問題や解決策、

それをきちんとみんなで共有し、進めていく必要があると考えたのです。

 

派閥や、損得、利害関係や立場を超えた、

みんなが自由に話せる場を作っていかないと、

母島の明るい未来は危ないと考えたのです。

 

母島には【ガジュ下】と呼ばれる、人々の憩いの場所があります。

前浜にある大きなガジュマルの木の下。

そこは色んな人々が集う不思議な場所です。

 

朝は仕事前の人が集まり、

日中は小さな子を連れたお母さん達、

昼は休憩の観光客、

夕方は仕事を終えた島の人々、

夜は若者が酒を片手に語り合う、

そんな【ガジュ下】の様な自由に色んな人が話せる場を作ってみようということになりました。

 

 

⑤「場活堂」との出逢い

自由に話す場と言っても、

狭い田舎の母島。

 

飲み屋では自由に話せても、

いざ会議となるとなかなか積極的な発言が難しいものです。

 

狭い社会の人間関係や

こう言ったらまずいかも、

言ったら責任を負わされる雰囲気、

沢山のしがらみ…

 

これを乗り越えるには容易でない事は明白です。

 

色んなしがらみを超えて、自由に島の為に話す場を創出するにあたり、

その対話のスペシャリストと出逢う事が出来ました。

 場活堂の泉一也さんです。

 

泉さんは土木建築を大学で専攻していたそうですが、

阪神淡路大震災の時に、

生まれ育った街が崩壊した状況と

そこで復興に燃える人々を目の当たりにし、

最後に残ったのは「人」だったと気付き、

そこから地域の人に焦点を当てて、

様々なコーチング技術を学び、

場活堂を始めた、

場を活性化させるスペシャリストです。

 

2019年の秋に東京・大森の場活堂事務所で場活を経験した時に、

「今の母島に必要なのはこれだ!」と確信しました。

島のみんなが自由に話せる場を作るには、

これ以上ないほどの出逢いでした。

 

 

⑥名前の意味

「母島部活堂」という名前の由来ですが、

2019年12月、役場の大広間で東京宝島事業の島会議を行っている時でした。

 

島民メンバーから、

『みんなで気楽に集まって色々話すって部活みたいなもんじゃない?』

『じゃあ語り合いの飲みに行くときも「部活に行ってくる!」と言えるわけ(笑)』

 そんな語り合いの中から【部活】というエッセンスが生まれました。

 

部室の様なみんながダラダラと自由に話すような、そんな雰囲気です。

固い会議とは違う、そんなものを目指したい、と。

 

そして、部活【堂】。

なぜ部活「道」でもなく、

  部活「道」でもなく

  部活「堂」なのか。

 

それはこの活動のきっかけとなった場活堂の泉一也さんからの想いでした。

 

「堂」の意味は、お堂の様な【場作り】がテーマであるというのです。

進む「道」ではなく、寄り集まって語り合う「堂」。

それと「部活」が合わさって、

【母島部活堂】というな、名前が誕生しました。

 

 

⑦どこに向かっているのか?

 

母島部活堂の向かう先は、島外よりも島内への目線が基礎となっています。

 

これは東京宝島事業の11島の中でも異質なプランなようです。

  

外にアピール・宣伝するよりも、

 まずは自分たちのホームをしっかりと築くのがまず最初の目標です。

  

その為には、母島島民の力だけでなく、

 様々な外の力も必要だと考えています。

 

自分たちの「あたりまえ」が「有難いもの」に気付くには、第三者からの目線が不可欠だと思うのです。

 

 

 そしてそれが、

 島内、内地、色んな場面でつながっていって、 

 母島を愛する輪が広がって、

 よりお互いにとって楽しい未来を築けたらと思っています♪

 

そして母島の地域力が増して、

 住んでいる島民が自分たちの魅力を再確認した時、

 母島の魅力というものは自然と外へと伝わっていくものと思っています。


⑧新型コロナという転換期

みんなで自由に島の事を話し合える場を作ろうと動き出した矢先、

世界を新型コロナウイルス現象が覆っていきました。

 

そもそも人が集まって話す場が奪われてしまったのです。

まさに大ピンチ! 

しかし、それは逆にチャンスとなりました。

 

コロナ禍の影響でオンラインでの交流が発達し、

様々な他地域との繋がりを作る事が出来ました。

 

海外と同時に繋がったり、

オンラインで東京の11島が集って、互いに島の未来について語り合ったり。

島の人が議会や、観光ではなく、暮らし目線で集って話すという貴重な場面になったのです。

 

そして、その時間は、

どのように母島という地域で話す場を作って行けるかと、

丁寧に模索し、検討する時間となりました。

 

 

 

⑨動き出した「母島部活堂」というカヌー

 

カヌーという船は一人では動かす事が出来ません。

 

目標が同じであっても、

漕ぎ手はみんな違う人間であり、

違う価値観、

力量、スタンスがあります。

 

カヌーは誰かが猛烈に頑張って、

剛力で漕ぐよりも、

みんなが同じ力、同じタイミングで漕ぐ方が進むという面白い乗り物です。

チームワークが大事なのです。 

 

しかし、違う人間が同じように漕ぐなんてなかなかできないものです。

相手を変えようと諭したり、声をかけたり、時には喧嘩したりするかも知れません。

 

でも、それでは相手は変わりません。

 

そんな時、大事なのは、ただひたすらに同じカヌーを漕ぎ続けることなのだそうです。

そうすれば、時間はかかりますが、次第にみんなの息が合って来るというのです。

 

ハワイのことわざに

He Moku he Wa'a,He Wa'a he Moku(島はカヌー、カヌーは島)

という言葉があります。

 

島の地域の運営も、「母島部活堂」というひとつのカヌーに乗ったと考えて、

みんなで丁寧に漕ぎ進んでいきたいと思います。

 

この事業が例え終わってしまっても、

母島部活堂は漕ぐのをやめず、続けて行く事に意味があると思っています。

 何年も、何年も。

 

みんなで話し合う場を気軽に話せる場を作る。

探り合いの様なだけで終わる会議ではなく、

話し合いをしていてワクワクするような場にする。

 

そんな話し合う場が生まれた時に、母島はまたひとつ素敵な島になれると思います。

 

それまで何年かかるか分かりませんが、

その場を実現するまで、母島部活堂は活動を続けて行きます。

 

どうぞあなたも一緒に、その場を作るというカヌーの漕ぎ手になってみませんか?